2004.10に閉館した名古屋空港航空宇宙館の名機百選追加コーナーです。

No.2

名古屋空港

国内線ビル 3階

日本の航空機製造会社、愛知航空、川崎、川西、中島、九州飛行機、第1海軍空技廠、広島海軍工廠などで製造された
名機を紹介します。

           

愛知航空株式会社
まず愛知航空株式会社の生産機から紹介しましょう。
同社は大正10年(1922年)に愛知時計電気株式会社が航空機の製造に着手し、
航空機部門を設立し、その後同部門が愛知航空株式会社となりました。

愛知 AB型航空機

愛知航空最初の成功作
当初、外国の航空機を使用目的に合わせて改造をしていたが、昭和の始めに
国の補助金を受け完成したのが、このAB型航空機で第1作はAB-1旅客機でした。

 

愛知 試作仮称H式艦上戦闘機

操縦士の安全を考慮しすぎ失敗
機体が不時着水した際に、操縦士が安全に脱出できる機能を備えるよう帝国海軍から支持され
完成した機は、滑水可能な水密胴体、水密下翼前縁、プロペラ水平位置停止装置、
投下式降着装置、着陸速度制限装置などが装備されたが、機体が重くなり運動性が悪く、
また機首部が特に重く着陸安定性が悪く、操縦士からの視界も悪かった。

 

愛知 九六式艦上爆撃機

機密保持のため軽爆撃機
実際は急降下爆撃機で昭和5年に帝国海軍が新しい複座式急降下爆撃機の試作を発注し、
昭和9年(紀元2594年)に採用され九四式と言われた。

昭和12年に勃発した日華事変に投入された威力を発揮
昭和11年(紀元2596年)には、九四式艦爆の改良案が採用され九六式艦爆が完成した。

 

愛知 試作六試小型夜間偵察飛行挺

大型飛行艇をカタパルトから発射
エンジンは瓦斯電(日立)製300馬力”浦風”水冷倒立直列型六気筒で2翅のプロペラを駆動。
しかし、軍用機として採用されず、日本航空輸送研究所へ払い下げられ、改良の後旅客機として
大阪〜別府、大阪〜白浜、などの定期便として使用されました。

 

愛知 九六式水上偵察機

レーダーが実用化するまでは花形
敵艦隊の位置を把握するための海上偵察の重要性から作られた機
帝国海軍は水上機の得意な愛知川西に開発を命じ、昭和11年(紀元2596年)に
川西の性能を大きくしのぐ成績を見せ正式に九六式水上偵察機として採用された。
連合軍コードは”ハンク”

 

愛知 九八式水上偵察機

昭和13年(紀元2598年)九八式として採用
前部で17機が製造され、連合軍コードは”ローラ”が付けられていたが
太平洋戦争初期に少数が使われたのみであった。

 

愛知 九九式艦上爆撃機

愛知、中島、三菱の3社競争試作に勝つ
結果は愛知が採用されたが脚は固定式。エンジンは中島製”光”730馬力は
力不足のため三菱製”金星”840馬力に変更。
最初は急降下制動板も強度不足などの不具合も克服エンジン出力も
1,080馬力にUPし空母機動隊に配属され真珠湾攻撃にも参戦。

総製造数は1,492機
太平洋戦争初期には英海国空母ハーミースと巡洋艦クロンウエルとドーセットシャーを撃沈し
急降下爆撃機としての性能を実証しました。
しかし、米海国F4Fワイルドキャットとの交戦によって大きな損害も蒙りました。

 

愛知 一二式複座水上偵察機

零式水上偵察機の試作機
昭和12年(1937年)に帝国海軍が水上艦艇のカタパルトから発進できる
複座式水上偵察機の試作を愛知航空に命じ試作された機で
後の零式水上偵察機として正式採用された原機です。

 

愛知 二式練習飛行艇

連合軍にも察知されなかった機
このため連合軍によるコード名は付けらて。居なかった

 

愛知 「瑞 雲」

時代遅れの開発機
帝国海軍は急降下爆撃が可能な高性能水上偵察機の開発を目指し
開発されたが、とき既に遅く米空軍の優秀な機が制空権を奪っていた。

 

愛知 試製「流星改」

一機で2種 三用途
昭和16年帝国海軍は愛知に対して1機種で艦爆、艦攻、を兼ね 雷撃、急降下爆撃、水平爆撃
が可能な機を要求した。
その結果 誕生したのが「流星」で、エンジンも”誉”2,000馬力と零戦の2倍の馬力を持ち、
その性能は極めて運動性に優れ、操縦性も良好な高性能機であったが111機生産されただけで
終戦を迎えた。

 

愛知 複座潜水艦発進攻撃機
「晴 嵐」

パナマ運河爆撃計画
潜水艦イ400号(排水量4,500t)を18隻建造し航空機2機を収容し、77,000kmを航行できる
性能を生かしアメリカ本土を攻撃する計画に搭載された機でした。

 

愛知 一八式夜間戦闘機
「電 光」

帝国海軍最後の開発機
ボーイングB−29スーパーフォレスト重爆撃機が中国に配置され
本土爆撃が間近に迫ったため、短期間でこれを仰撃できる
手段として、「月光」長距離護衛戦闘機に原始的なレーダーを
装備して夜間戦闘にとすることになり製造に取り掛かった。

高高度まで上昇するため酸素噴射式エンジン
高高度で飛来するB29に対して、ガスタービン過給器の完成が間に合わず酸素噴射式として
とりあえず初号機の製造に掛かったが愛知航空、永徳工場が爆撃され焼失、
続く2号機は松林の中で製造されて90%完成したところで終戦となった。

 

空技廠

横須賀に所在した
第1海軍空技廠のこと

空技廠 艦上爆撃機

「彗 星」

設計思想は1938年(昭和13年)
合計2,038機も製造され、空母から発進したが装甲防護が
不十分で、防漏式タンクも備えていなかったため、
小口径の機関銃の射撃にも脆弱で、連合軍の餌食となった。

 

九州飛行機

九州 十八試局地戦闘機
「震 電」

初飛行が終戦12日前
2,130馬力のピストンエンジンで6翅のプロペラを駆動し最大速度750km/hと見積もられていた。
兵装は機首に300mm五式機関砲4門を搭載していた。
後に推力40kNのターボジェットエンジンを搭載予定であった。

 

川 崎

川崎 五式戦闘機
(キー100)

第二次世界大戦に日本陸軍就役した最後戦闘機
高度9,200mで飛来するB−29に対抗するため開発されたが高出力の直列エンジンが無かったため
キー61の機体に星型エンジンを搭載、99機が生産されたが工場が爆撃され生産は終了した。

 

川 西

川西 局地戦闘機
「紫電改」

水上機が得意な川西が陸上機を
強力な中島”誉”エンジンの最大出力を生かすための大口径の
プロペラが必要となり、このため長い主脚の開発などに手間取った機。
その後改良され「紫電改」となり、フィリピンなどで戦い
連合軍から”ジョージ”のこーど名で呼ばれた。

 

中 島

中島 九七式戦闘機

キー27

中島の自社資金で開発した単座低翼単葉戦闘機
生産機数3,399機の内、満州で1,378機も生産され、中国北部ではソ連のポリカルポフT−16が
出現するまで、航空優位を維持しつづけることが出来ました。

 

中島 一〇〇式重爆撃機
「呑 龍」 キー49

戦闘機の護衛なしの爆撃機
しかし、兵装が貧弱な上、出不足で、爆弾搭載量や加速性に大きな
制限があり、連合軍の戦闘機には敵わなかった。

 

中島 四式戦闘機
「疾 風」 キー84

登場が遅すぎた単座戦闘機/戦闘爆撃機
もっと早く、大量に配備されていれば、太平洋戦域で活動していた
ノースアメリカンP-51マスタングやリパブリックP-47サンダーボルトを
凌ぐ上昇率と運動性によって、連合軍に深刻な打撃を与えたはずです

軽合金を節約するため
機体フレームを木製構造にしたり、
全木製構造のキー106等もありました。

 

中島 二式単座戦闘機
「鍾 馗」 キー44

上昇力と最高速度は抜群
主として日本本土の防衛に配備され、連合軍からは”トージョー”のコードで呼ばれていました。

 

三 菱

三菱 九六式艦上戦闘機

日本海軍初の単葉戦闘機
連合軍の識別名は”クロード”(Claude)。日中戦争の頃までは花形機であった。

 

三菱 一〇〇式司令偵察機

キー46

性能が上の連合軍を最後まで迎え撃った機

 

三菱 局地戦闘機

「雷電」 J2M

写真は米軍に捕獲され試験飛行のJ2M
戦後シンガポールに置かれた連合軍技術航空情報部隊のパイロットによりテストされた。

 

三菱F−1戦闘機

戦後初の作戦機
T−2型練習機から発展した三菱F−1は、戦後の日本で初めて開発された本格的な作戦機です。

コクピット付近
13:三菱製ヘッドアップ・ディスプレイ
14:計器盤覆い
15:方向舵ペダル
16:迎え角プローブ
17:エンジンソスロットル
18:操縦桿
19:右サイドコントロールパネル
20:ダイセル・ゼロゼロ射出座席
21:安全ハーネス
22:アーム拘束装置
23:左サイドコントロールパネル
24:機関砲発射ガス溝
25:UHFアンテナ
26:前脚柱ドア
27:トルク・シザー
28:前車輪
29:操向モーター
30:機関砲砲身フェアリング
31:操縦席後部隔壁
32:射出座席レール
33:ヘッドレスト
34:コクピット・キャノピー・カバー
35:キャノピー・ジャッキ
36:キャノピー・ヒンジ
コクピット後部
37:電気系統接続箱
38:慣性航法装置
39:空調ダクト
40:前車輪室
41:機関砲砲身
42:コンピューター・インターフェイス装置
43:レーダー追尾警報装置コンピューター
44:電子機器室アクセス・ドアー
45:ガン・カメラ制御装置
46:右エンジン空気取入口
47:弾薬ドラム(最大750発)
48:給弾ベルト
49:境界層分離板
50:ゼネラル・エレクトリック製砲身回転式機関砲
51:左側空気取入口
52:負圧リリーフ・ドア
53:空調装置
54:下側識別灯
55:No.1胴体燃料タンク
56:ブリード・エヤー・ルーバー
57:境界層空気ダクト
58:操縦索
59:識別灯
60:TACANアンテナ
61:胴体背部フェアリング
62:燃料系統配管
63:No.2胴体燃料タンク
64:空気取入導管
65:左主翼付け根前縁延長部
66:主車輪、収納位置
69:左前縁フラップ電動モータ左右連結シャフト
70:No.3胴体燃料タンク
71:No.4胴体燃料タンク
72:中央翼貫通構造
151:胴体中心線パイロン
152:4連装投下ラック
153:高性能炸薬爆弾4発

制動傘
尾部コーンには直径5.5mの環状スロット式制動傘1個が取り付けられています。
この制動傘は強力な住友精密製アンチスキッド・ブレーキやエンジン排気口の間荷収納する
飛行場拘束フックを補佐する機能を持っています。

2004.10に閉館した名古屋空港航空宇宙館と送迎デッキの紹介です。

残念ながら

2004.10.末

に閉館しました。

 この頁は航空路灯台、DC8の1号機「FUJI」の主脚、YS−11トレーナー、星型エンジン、直列エンジン、ターボプロップエンジン、
F−104ジエットエンジン、フライトシュミレータ、宇宙ロケットコーナー、風洞実験コーナー、航空管制システム映像での体験など
と送迎デッキの紹介をします。

航空路灯台

 

 

DC8の1号機「FUJI」の主脚

 

 

YS-11トレーナー

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

フライトシュミレーター

前方に映し出された映像に合わせて機体が上下・左右に動くことにより小型機の搭乗体験が楽しめます。

 
 

 

 

 

宇宙ロケットコーナー

H−UAロケット模型もある
名古屋大学名誉教授 藤原俊隆先生の指導による、ロケット飛行の原理やその仕組みを各種実験装置による紹介
また、日本の宇宙開発の現状を宇宙開発事業団などの協力により国際宇宙ステーションを
中心に模型・映像などを使い分かりやすく展示していました。

 
 

 

 

 
 

 
 
 

 

送迎デッキ

広々とした空港全景、航空機の発着を眼前に見ることが出来る絶好の場所でした。
名古屋空港は旅客機ばかりでなく、自衛隊機、各種小型機、ヘリコプターと機種も多様で飽きさせませんでした。

 
 
 

映画監督黒澤明デザイン
日本エアシステムが保有するMD−90のカラーリングは映画監督の黒沢明の手によるもので
保有する16機の機体に7種類のデザインが描かれています。

DC-10の新型機MD-11が基本
MD−90はMD−80の後継機として開発された先進的な機体です。
マクダネル・ダグラス社からボーイング社へ
ボーイング717はマクダネル・ダグラス社のロングビーチ工場でMD-95として誕生したものである。
 

2000年に生産中止
1997年にマクダネル・ダグラス社はボーイング社に買収されましたが、それまでの
MD−90の発注数は114機に及んでいた。

客席数の最大は172名
基本型の機体を1.45m延長し、尾翼を拡大したMD90-30はV2525−D5ターボファンを搭載し
客席数は最大172名とすることが出来ました。

 

 
 

残念ながらこれらの施設は名古屋空港が常滑沖のセントレアへの移転のため
2004.10に閉館されました。
航空宇宙館の展示物は何らかの形で生かされることと思われます。